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名誉院長心のエッセイ -枚方市歯科医師会報-

生涯現役、真剣に生きる 100歳の先達(せんだつ)昇地三郎先生に学ぶ 宮﨑 白雲斎 洋

小さきは 小さきままに
折れたるは 折れたるままに
コスモスの花咲く

博多湾に浮かぶ 能古島 ( のこしま ) に100歳で現役のしいのみ学園園長  昇地三郎 ( しょうちさぶろう ) 先生の詠んだ歌碑が立っています。

以下は昇地先生の言葉です。

『私の息子は、自宅で10年以上寝たきりのまま ( ) きました。社会のためには何の役にも立たない息子でも、枕元で頭をさすってやると、「父ちゃん頑張れ」という思いが伝わってきて、それだけで親の励みになっていました。

いてくれるだけでいい。生きているだけでいい。一人ひとりが自分の能力の最大限を出して生きるというのは、そういうことです。みんなが一列になっていい学校、いい会社を目指すようなことをしていては、自分の能力を最大限に出すことはできない。小さきは小さきままに、折れたるは折れたるままに、自分にできる精一杯のことをして生きる。それぞれの立場でできることをやり、人に喜ばれ、役立つ存在になることが、人が生きる目的だと私は思います。

しいのみ学園にはいまダウン症の子も来ています。ダウン症の子は、社会のお役に立つことは難しいけれども、私の家に来た時、私の寝床のねじれた枕をそろえて帰るんです。その子ができる精一杯のことをしています。』

脳性小児まひのわが子を抱え、人生のすべてを障碍児教育にささげる決意をして50年余り、しいのみ学園園長として現在も精力的に活動を続ける昇地先生の若々しい 挙措動作 ( きょそどうさ ) からは、100歳という年齢はとても感じられない。

すべての ( わざわい ) ( ふく ) に転じ、今もなお前進し続ける昇地先生を支えるものは何でしょうか。

『深刻に考えたら、もう何度か死ななきゃならんような辛い目にたくさん遭ってきました。
親が軍人で、当然軍人になれると思っていたところが、15歳で陸軍幼年学校の試験を受けた時に身体検査ではねられた。これはショックでした。

それで師範学校に入って教育の道を迷わずずっと歩んできましたけれども、小学校の教員をしていた時に生まれた長男が、1歳の時に高熱を出して脳性小児まひになった。これがまた大ショックでした。どの医者に診てもらってもダメだと言われた。それでも、化学には限界があるが親の愛情には限界はない。必ずこの子をよくしてみせる、と決意して教員を辞めて、広島文理科大学の心理学科に入りました。だけど学校では実験研究するだけで、実際に役に立つところは一つも学べなくて、心理学に限界を感じて、九州の精神科に入って勉強しました。非常に得るところの大きな研究生活を続けておったのですが、次男もまた小児まひになってしまった。このショックは大きかったですよ。一人だけでも随分苦労していましたからね。小学校入学の年齢を迎えても、通学はとても不可能だから、涙をのんで「就学 猶予 ( ゆうよ ) 願」を出さなければなりませんでした。

3年目にやっと親が付き添って登校できるようになりましたが、待っていたのはいじめでした。それを陰で見ている親の涙ほど、辛いものはなかった。
これではいけない、立ち上がれ!と一念発起して、私が引き継いだ妻の実家の財産を処分してしいのみ学園をつくったのです。山の中に捨てられた小さなしいの実は、落ち葉の下に埋もれて、人や獣に踏みにじられているけれども、温かい水と太陽の光を与えるならば、必ず芽を出してくる。そういう願いを込めて、この子らのために学校をつくろうと決心して、福岡市の郊外、井尻の田んぼの中に、このしいのみ学園をつくったのです。
まだそのころ、(昭和29年)は、国民服を着て、食うや食わずの時代でしたから、学園を作ることに賛同してくれた家内の決断には、今でも感謝しています。』

当時はそういう養護学校は一校もありませんでした。その活動がやがて映画にもなり、全国から見学者が毎日のようにやってくるようになって、各地で同じような学校が次々と建ち始めました。一時は「しいのみ学園」という固有名詞が普通名詞のようになって、「秋田県にしいのみ学園設立される」「滋賀県にしいのみ学園開設される」といった見出しで次々と報道されました。

息子2人とも小児まひになったことは、本当に辛かった。だけど、子どもの病気をよくしたい一心で大学に学び、医学博士、文学博士、哲学博士、教育博士、と4つも博士号をもらった。この4つの博士号をくれたのは、障害児の息子なんです。
もし、息子たちの小児まひにうちひしがれていたら、これはもう心中するほかない。人間の生きるべき本当の道というものを、子どもたちが教えてくれたんです。』

世の中に出ていけば、いろんな問題にぶつかります。問題にぶつかった時に、そこから逃げずに解決してやろうという意欲を、人間は持たなければなりません。結局は、問題にぶつかったら自分で解決できるような人間になることが重要なのです。

筆者は今年2月で70歳です。100歳の昇地先生からみれば、60、70、 洟垂 ( はなたれ ) 小僧、あと30年元気で働かなければ先生の ( いき ) には達しません。

『私のいまの信念は「90代、いまからでも遅くはない」というものです。私は63歳から韓国語を始め、95歳から中国語を始めたんですよ。これをご覧なさい。私の日記です。このあたりまでは韓国語で書かれているでしょう。このあたりから中国語になっている。電車に乗って、他の人がボサッとしてる時に、これを読み返して復習するんですよ。ここはちょっと字が違っているとか、それで帰ってすぐ字引を引くんですよ。字引を引くと、覚えます。そして書くと覚える。

中国の大学から「名誉教授になってほしい」と言われて、そこへ行った時に、どうせ行くなら中国語を身につけていこうと思ったんですよ。すぐにテキストを買ってきて、ラジオの講座で勉強しました。
中国語は発音が難しいですから、しいのみ学園に来ている中国人の留学生に習い、向こうで講演するときに「ニイハオ」とやった。すると、大拍手ですよ。それからひと言を言うたび大拍手。「人は成熟するにつれて若くなる」身体は成熟するにつれて老化していきますが、心は成熟するにつれて若くなるんです。』

昇地先生はしいのみ学園をつくられた後も、いろんな苦労を乗り越えてこられました。経営も大変だったし、途中でお子さんも亡くなり、奥様にも先立たれた。しかし、どんな時も悲観しないで、いつも明るく歩んでこられました。 『成すべきことは成した。自分のやるべきことはやったのだから、死のうが生きようが、泣いたりわめいたりすることはない。いつもそういう心持ちで生きることを学んだのです。身内の者が私にそういう生きる道を教えてくれたのです。くよくよしない。

私はいまも自分の洗濯物は全部自分でやるんですが、それを外へ干さないで、寝室の壁に掲げてある亡くなった家族の写真を見ながら。その前に干すんですよ。その時に、死んだ子どもたちが私に「父ちゃん、よう洗うたね。」「親父、しっかりやれよ」と応援してくれているような気がするのです。私も心の中で「父ちゃんは頑張っとるぞ」と答える。そうやって子どもとたちと心の中で会話をするのが楽しいのですよ。

家族の死をいくら悲しんでも仕方がない。私の心の中にはいつも家族がいて、「頑張れ」と励まし続けてくれているのです。

私はいつも、「禍を試練と受け止めて前進せよ。いまからでも遅くはない。」と自分自身にも、そして周りの皆さんにも言い続けていますが、そういう毎日を送りながら、自分の能力を最大限に出して死ぬるということ。それが、人間の生きる意味だと思っています。

貧困だとか、家族の事情だとか、自分を取り巻く環境をマイナスに捉えて自分の生き方を制限してしまうと、人間はダメになります。だから、どんな状況にあっても、自分の能力を最大限に出すこと。知能の高い者は、知能の高い仕事を、そうでない者はそれなりに自分の力を最大限に発揮して生きることが、一番の幸せにつながるのです。

常に自分の能力を最大限に出すことを心掛けて生きておれば、いつ何があっても、わが人生に悔いなしと言い切ることができます。これまでの100年の人生を振り返って、わが人生に悔いることなしの心境です。私は自分の能力を最大限に発揮して生きてきたという実感がありますから、時にああすればよかったと、何も悔やむことはない。これからも ( うし ) ろを振り向くことなく、常に前進あるのみ。 Go ahead ( ゴーアヘッド ) !の気概で歩んでまいります。』

筆者は今から50年前、昭和31年4月、大阪歯科大学入学時以来、人生のモデルとして恩師故梅本芳夫教授、「岐阜歯科大学(現朝日大学)学長、大阪歯科大学名誉教授、大日本帝国陸軍高槻工兵隊大隊長、陸軍大尉」を目標に日々精進してまいりました。

梅本芳夫先生が50年前に私たちに言っていた言葉を今でも鮮烈に思い出します。 敬虔 ( けいけん ) なキリスト教徒の家庭で育った先生は、「お酒を飲まない、たばこを飲まない、日記をつける」と 口癖 ( くちぐせ ) のように言っていたのです。若くて 生意気 ( なまいき ) で素直でなかった私は、「お酒を飲まない」という一点が守れず、失敗ばかりして、平成2年もう少しで死ぬという大失敗をして、やっと目が ( ) め、お酒をやめて今年で16年目となりました。振り返ると ( ) ( すけ ) の友人は、次つぎと天国や地獄へ旅立って行きました。たばこ飲みの友人も、肺癌や胃癌、膵臓癌で次つぎと旅立ったり、現在入院中で、「もっと生きたい」などと言っています。梅本芳夫先生の教えでは、人間は一度や二度教えたり、指導しても、なかなか改めたり、理解したりしないということです。何度も繰り返してやっと少しわかるとのことです。 素直 ( すなお ) さが大切なのです。

医者と患者の関係についても、次のように言われました。医者と患者は対等の関係であると。君たち歯科医は、患者の歯を診るだけでなく、 ( ) んでいる人を ( ) るわけだから、人間に深い感心、愛情を持たなくては、臨床医は ( つと ) まらないよと ( さと ) されたのです。

私は先生の教えを守り、盆休みであろうと暮れ正月であろうと、困った人が助けを求めてくると、できる限り助けてあげることにしています。文字どうり“ 抜苦与楽 ( ばっくよらく ) ”ができることに感謝して生きています。

『人生は自分自身との戦いである。自分自身の ( なまけ ) 心に打ち ( ) って、自分の目標に向かわなくては生き 甲斐 ( がい ) なんて見出せません。もちろん100年も生きておれば苦しいこと、悲しいことがしょっちゅうありますよ。だが、そんなことにいちいち挫けるような弱い人間じゃ駄目です。試練に打ち ( ) って常に前進していく。だからまだ当分は死なれんということです。』

100歳の昇地先生に私はずいぶん ( はげ ) まされ、今後は先生を人生のモデルにしようと思っています。

(2006年(平成18年)1月9日成人の日に記す)

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