1. トップページ
  2. 創設者紹介
  3. 「枚方市歯科医師会“宮古島旅行”の点描」

名誉院長心のエッセイ -枚方市歯科医師会報-

枚方市歯科医師会“宮古島旅行”の点描 牧野班 宮﨑 白雲斎 洋

“宮古島”に決定という情報で、私の心の中に40年前の大阪歯科大学6年生(病院生・インターン)の時の情景が ( よみがえ ) りました。

昭和36年7月15日午前9時大阪国際空港(伊丹)に着陸した米国極東空軍の大型輸送機ダグラスDC54型機 (4発のプロペラ機)に診療椅子3台と診療器具一式、材料など合わせて約2 ( トン ) を積み込みました。大阪歯科大学教授 梅本芳夫以下、歯科医師9名と学生7名計16名の救ライ奉仕団員が軍用機に搭乗する直前に、通訳として沖縄まで同行して下さったジョージ・タカバヤシ大尉が、米国極東空軍の公文書を示し、丁寧に説明してサインを求めました。「万一、飛行機事故により昇天しても、米国ならびに極東空軍に対して 、一切の損害賠償を請求しないことを誓う」と英文で印刷され、横文字で全員がサイン しました。

次いで全員にパラシュート(落下傘)と救命胴衣が配布され、着用しました。緊急時、機外へ飛び出す命令が出れば、右手で胸のハンドル(引き手)を握り、空中に飛び出してから、 1 ( ワン ) 2 ( ツー ) 3 ( ) 、… 10 ( テン ) まで数をかぞえてからハンドルを思いっきり引けと教えられました。 ( あわ ) てて早く引くと落下傘が開かないこと、失神して引かないでいるとそのまま墜落すること、海面に降りれば救命具のポケットにある 鮫除 ( さめよ ) けの染料の ( かたまり ) (大型の石鹸状で布製の袋に入っている)を身体の周辺で溶かせとも教えられました。そのうち米軍の救助隊がくるから…。

結果的にはパラシュートの実習をすることはありませんでした。

10時に離陸、一路沖縄の那覇空港を目標に飛行し、瀬戸内海の上空を西へ、さらに九州から方向を南に変え、白煙を上げる桜島上空を南西に向かい、紺碧の海を下に見ながら飛行すること4時間で那覇空港に着陸、小休後宮古島に向って飛行しました。宮古島飛行場は平良市郊外にあり、国際飛行場と看板に書いてはありますが、滑走路は舗装もしていないただの草原です。那覇空港を飛び立って1時間20分後着陸しました。

国立ライ療養所宮古南静園の垣花恵吉園長が小型トラックを運転して迎えに来て下さ り荷物はすぐ南静園へ運び、私たちは平良市の港の近くの「日の丸旅館」に入りました 。ここが私たちの宿舎です。ここから毎日2台の小型トラックで20分の距離にある南静 園まで通勤しました。(勿論荷台に乗っての移動です。)平良市内ではまだランプを使っている家もあり、ガラス戸のない家もたくさんありました。テレビは1台もありませ ん。雨が降ると裸足で歩いている人がたくさんいます。

南静園は島の北部にあって海に面した崖の中腹にあります。戦争ですっかり焼失したので戦後はブロックの平屋の長屋が並んでいます。ここに診察室、病棟および患者の自宅があります。事務所や医員や職員の官舎は崖の上にあります。日本の南端しかも 真夏、白衣、白帽、マスクにゴム手袋での診療は大変です。南静園での1週間の診療の 成果は次の通りです。診療した患者延802名、総義歯、局部義歯作製115床、抜歯187本 、アマルガム充填65本、歯槽骨整形1例、歯石除去29例、その他の治療439本でした。その後私たちは沖縄本島「沖縄愛楽園」で1週間の診療奉仕をして無事米軍輸送機で帰阪しました。

昭和36年当時、沖縄の人口90万に対しライ患者は約2千人、日本本土の人口9千万人に 対しライ患者はわずか1万4千人でした。沖縄愛楽園には950名、宮古南静園には335名の患者が入園してライの治療を受けていました。私はこの年1月、梅本教授の命を受け北野繁雄(明海大教授・故人)、西村敏 治(前厚生年金病院歯科部長)と3名で、本隊派遣前の偵察隊長として、宮古島に行き、南静園の入園者の口腔診査をし、詳細な記録を持ち帰り7月の本隊派遣に備えたのです。

この時、垣花恵吉園長から沖縄に関する歴史や文化、言語や音楽の知識を授かり、40 年後の再会に胸をおどらせていたのです。よく考えてみると当時50歳代の人は今90歳代 です。長命の沖縄でも、垣花恵吉園長は故人となっていました。

私にとっては三度目、40年ぶりの宮古島、枚方歯科医師会の22名と平成12年(2000年)11月3日、関西国際空港11:20発、約2時間程で宮古島空港着、空港も滑走路も道路も舗装され、建物も立派、昔の面影は全くありません。 「花龍」で中華料理の昼食、ハワイかと思うほど美しい「東急リゾートホテル」に宿 泊、翌日から2日間のゴルフのプランながら、平良市西里の「 下地栄 ( しもじさかえ ) 芸能館」で民謡師 範に午前2時まで 三線 ( サンシン ) と宮古民謡3曲の講義を受けました。南静園は最終日のゴルフが終 わってからの訪問でした。庶務係長 厚生事務官 荷川取(にかどり)秀樹さん、菊池一郎園長に説 明を受けながら園内を案内されました。現在入園者は170余名、平均年齢も70歳余との こと。ライ病は根絶され、1人の発病者もないとのことでした。病棟、宿舎、診療棟など本土の病院と何らかわるところがなく、全て美しく生まれ変わっていました。 ライ患者を隔離し、家族から無理遣り引き裂いていた「ライ予防法」も消滅していま した。40年の歳月は全てを変えていたのです。

ヘラクレイトスの万物流転パンタ・レイ(panta rhei)を心に ( きざ ) みこむ旅でした。

2001年(平成13年)1月15日記

このページの上へ